昭和40年8月18日 親先生月次祭御教話



 「信心は家庭に不和のなきが元なり」と。信心は家庭に不和のなきが元、と仰っておられます。「おかげは和賀心」とも仰っておられます。和らぎ賀ぶ心ですね。
 私は、昨日善導寺の親教会、ちょっと車を待っとりましたもんですから、遅くなったんです。こないだ月次祭、初めて後ろから拝みました。私は、もう必ず、私の席というのが、もうここの一番前で拝むんですね。椛目の方達はいつも周りに、こう、ずらーっと並んで拝ましてもらうんですけれども。昨日は、一番最後から、後ろから、まあ、参らして、拝ましてもらいました。で、御祭りが済みましてから親先生がいよいよお説教ということになりましたら前におった方達がみーんな後ろに行ってしまうんですね。畳を形に三枚は全部空いてしまうんですね。 もう遥かむこうの方に信者さんが、こう(笑い)。広いですからね、お広前が。私は、ほんとに驚きました。私は、豊美にいつもあげな、前から、あの、この人は楽のほうで見よります。「いつもあげな風か?」ち、言うたら「いつもあげなふうですよ」ち。「ははー、もうこのへんに椛目と、善導寺の先生。もう、ほんとに反対なところが違うなあ」と。
 朝晩の御理解で皆さん、ここで御祈念なさっておられるけども、よいさ、私が御結界に座ったら、皆がここで、我先に前の方へ出て来られるわけでしょうが。私は、どちらが本当とは思わんですけれどもね。けれども、そのその中に何か知らんけれども、ほんとに善導寺は善導寺ふうにです、もうほんとにね、あぐらをかいておる人はかいておる人。足を前に出しておる人は前に出しておる人。横座りしておる人は横座りしておる人。団扇を使っておる人は使っておる人。私どんはもう、あげんしてハンカチでこうこうされよったちゃ話そうごとなか。ほんとです。
 
 親先生は、その点、ほんとに和賀心をいつも持っておられる証拠だと思うですね。もうどんなに向こうの方に、ずーっと遥か向こうに、それこそ並んでおりましても、目が向こうむいておろうが、こっち向いておろうが、団扇を使うておろうがやっぱり一時間たっぷりお話になります。あの点私共は、修行しよるかと思うけれども、やはり生き方もすごいですね。
 だから、ああでなかならければならない、こうでなからなければならないということではないということ。ね。どれが本当でこれが嘘であるということはない。問題はそこにです、ね。なんとはなしに、月次祭に拝まして頂いとる銘々のその信心、信者さんの雰囲気というものがです、ね、お礼にお参りさして頂いとるんだと。有り難いと思うてからこうやって居眠りをしてもしたい、善導寺だったらそれでいい、というわけ。椛目はそんなわけにはいかんです。(いらひのかお?)ですから。もう有り難き勿体無きでは、もう象徴のほじゃろう…(笑い)。ね。なかなか、それでいて何とは言えんその、よい雰囲気があるのです。
 
 私、今晩のこの、御祭りを拝まして頂いて、一番下の段に野菜のお供えがしてございますね。なかなか盛りにくかったろうと思うですね。もう胡瓜のこげん曲がったつばかり。もう、前のほうは人参。後ろのほうは菜っ葉ですね、白菜の菜っ葉。真ん中に、ほんとその、茄子。なかなか盛りにくい物ばっかりなんです。ほんとにその、これは久保山先生の(  録音不良  )じゃあないですけれども、ちょっとその、神饌室に一時間なら一時間前に水が(くれておる?)だから、ぱーっとこう、生き生きとしておるところを、あの一台のお三方に盛り上げておる。ね。私それを見せて頂きながら、真ん中にどんと五、六本の、あの茄子のあるのを見せて頂いてから、じつは今日の御理解を頂いておるんです。
 ははあ、どういう菜っ葉のようなおねにしおりんごたっとがおろうが、ね。どんなに曲がったつがおろうが、ね、まあ様々なものがあってもです、あれがぐーんとその、これがあってなお良しというように、調和を保っておるということなんです。ね。
 それにはやはり、わたし、活け巧者にならなければならない。むぎ巧者にならなければならない。頂き巧者にならなければならないということなんです。やはり、稽古が必要であるということ。もし、あれが必要、素人だったら、とてもとても盛りどんされるお野菜じゃないですね。あんなに盛り上げられないんです。
 皆さん、ひとつ見直してみなさい。見事でしょうが。胡瓜が、こーう、よがんどる、こうやって一様な方へこーうしてある。後ろの方は菜っ葉なんです。白菜。ね。じわーっとこうなっとる。なっとやかさ、もう、それこそ見られたもんじゃあないですけれども。やっぱそれに手を入れてある、ちゃんと。ね。
 結局、なかの茄子の、いわゆる安心で皆を引き締めておるというわけなんです。家庭の中にもこういうようなおかげを頂いてまいりましたら、信心は家庭に不和のなきが元というような、元が頂けれると私は思うです。ね。
 ですからです、八方美人に家内の、それこそ、おお、そうかそうか、子供達も、おお、そうかと言うて、その、言うとるというのではなくてです、ね。もう、どれもこれも、それを有り難く活けこなせれるところの安心のおかげを頂いておく以外にはないということです。ね。
 
 中心に、ほんとに安心のおかげを頂いておる人がおりますと、どのような場合でもです、その人が中心になります。ね。その人が日頃、稽古さしていただいておるところの、言わば、盛り方なら盛り方を活かして、曲がったなら曲がったのを、萎れるなら萎れるのを合わして、そして、でなからなければ出来ないような、言わば三方一台の、あの、お野菜の盛り付けが出来ておるようなものだと、私は思う。
 家庭に不和のなきが元という事は、ね、お広前に不和のなきが元ということとも同じこと。大きく言うならば、社会に信心は不和のなきが元ということも同じこと。だからそこも祈らなければならない。だからそこを願わなければならない。縋らなければおられんのである。
 今朝の御理解にもそういう御理解を頂いたんですね。どうぞ今日も無事に、どうぞ商売繁盛致しますように。今日もひとつ、健康で無事に平穏に今日一日おかげ頂きますように、と言うて朝の御祈念にお参りをして、お願いをしたお取次ぎを頂いた。
 おかげを頂いて、今日も無事で商売も繁盛致しました。ね。怪我過ちも無しに今日もおかげを頂きまして有り難うございましたと言うて御礼を申しあげる、その御礼を申しあげるということがです、はたしてどれ程神様がお喜びになるだろうかということだ。ね。
 
 喧嘩、口論して今日もほんとに、もうこげな日はなかったというよりも有り難い。神様が喜んで下さるに違いないけれども、神様の喜びというものは、本当に喜んで下さるというのはそんなもんではない。そういう祈りが、そういう願いがです、ね、一回りづつ大きうなっていかなければいけないということであると思う。
 自分方一軒のことだけじゃいかん。自分のかど内のことが、ね、町内のことがです、隣近所のことがです、いわゆる袖擦り合うも他生の縁というか、他生の縁を活かして、どうぞ氏子が、あの人が、と言うて祈らなければおられない信心をだんだん身に付けていかなければならない。
 東京の銀座という所の教会の先生は、やはりこの戦災に遭われた戦災教会である。おかげを受けられてから、その後間もなし頂きますとです、ね。自分は自分の教会の復興ということをいっぺんだってまたお願いしたことがなかった。御本部参拝させて頂いても、金光様にお願いをさして頂くことは、東京全土の復興であった。もう、明けても暮れても祈らしてもらう、願わして頂くことはそのことばっかりだった。ね。
 東京都が復興していくにしたがって自分の教会も、前よりも増して立派な御広前が建立されたり。信者も多くなったり。あの東京の真中にあってです、御大祭の時にはお米なんかはトラックで、まあ、もって来るそうです。というようなおかげを蒙っておられます。そう、そんならいっちょ今日から、私もいっちょ福岡のそこんのきゃ福岡中の事ばいっちょお願いしよう。このそらいっちょ、こんだもう久留米中の事をお願いしよう。と言うただけではいけませんですもんね。そうでしょうが。
 
 これも願え、願いなら、金光様の、三代様の真似でもするならば、もう世界真の平和を願うておられたり、ね。世界総氏子の総助かりを祈り願い縋り貫いておられた。願わく、私共もそれを願わして頂けれるような信心を頂かしていただかんならんのだけれど、それがですね、あの、刹那刹那には願われるんですね、私達共は、信心さして頂いておると。ね、それこそ。
 昨日も、高芝さん、福岡行って帰ってからです。先生、今日は福岡の何処々に七重衝突あったと。ほんとに聞かして頂いて、ほんとに祈らなければおられん、縋らなければおられんと。ね。皆さんもそうでしょう。ほんとに、はー、ほんとに、まあ何と神様が下さるかと思うと、願わなければおられんのであり、縋らなければおられんのだけれども、それをいつもにというわけじゃない、それは刹那的な祈りである。ね。それを願わして頂くという事。
 今日、私はそういうような朝の御理解を私が頂いておりましたら、済んでからその、北野の中村さんと福島さんのお母さんが二人出てまいりました。まあ、「先生もう今日はもう私が頂かなならんような御理解でございました」ち言うわけ。「昨日私はもうその、中村さん所のおばあちゃん所行ってからです、もう、うちの父ちゃんばっかりはもう、うちの息子の事で願うてくれよるじゃろうか。もう商売の事でお願いしよるじゃろうか。もう、かわいいことで惚けたことなってからいってから、もううちの事はなーん構わせんな。と言うて、そのもう愚痴をこぼしてきた」というわけ。ね。もう椛目のことまで、ならもう惚けたことなっていく。「あんただん父ちゃん、子供ん事ばお願いしよるの」ち言うたら、「お前だんねえごと言うこといらん」ち言うてから、ち言うてから言わっしゃる。ね。そら福島さんの気持ちの中には、祈らん願わんはずはないだろうけれどもです。
 ところが、今日の御理解を頂きよってから、奥さんが考えられたという。はーあ、なるほどと。お父さんが椛目の事を中心に一生懸命信心を進めていっておってくれるおかげで、福島の家が立っておることが段々分かってきた。なるほど、考えてみると、ついこの頃も二番目の、三番目の息子か、アルバイト行きよる。久留米から熊本帰りの、何か、トラックの、何か三メートルもあるところ下へ落ちたと。後の方からボツボツ、分からなかったけどだんだん聞いているところがです、ね、そこからまっ逆さまに車が落ちておると。そして暫くはもう全然伏せいで目が覚めた時には、もうその、車の周囲に沢山の人だかりだったと。それでまったく、してみると何処もかすり傷しとらんといったようなおかげを頂いておったと。
 これは、そのつど息子の事だけのことじゃない。息子達のあの、例えば入学の事から、何やらかにやら、いろいろな思わせて頂くとです、なるほど息子の事だけ願いよるわけじゃないけれども、椛目の事にお父さんが一生懸命なってくれておれば、おかげを受けておるという事をです、今日分からせて頂いたというようなことを御届けしてまいりました。
 信心は古かつばってんなあ、奥さんの方が。けど片一方の方が。ね。やっぱりその、本気で稽古しなきゃ勝たん。長いばっかりじゃつまらん。
 
 おかげは和賀心にあり。ね。信心は家庭に不和のなきが元と。ね。不平を言うまい、不満を言うまい。
 今日、壱岐の町田さんがお参りしてまいりました。なかなかあんま信心が好かんほうです。家内が信心をする。お母さんが御承知のように、あの野口さんですから、熱心に信心をされます。ところが、この前のちょうど、今度のお盆だったでしょう。帰って参りました時に、その、小便詰まりをした。そん時したわけじゃないでしょうけれども、そういう持病があった。だから、お母さんが一生懸命お願をなさる。ご自分もお願いに来る。おかげを頂いてそれっきりおかげを頂いておる。
 ★ところが今度は、今度はまたきたら痔が起こった。で、今日は痔のお願いに来た。前と後ろもあるじゃんね、あんたはち(笑)。「そうでございますたいち、もうほんとに後ろも弱い。そいけん前のだけのほうはおかげ頂いてから、今度は後ろが悪うなっとる」。「ほんとに前もそげんしておかげ頂いたっちゃけんその内おかげ頂かないけん」と言うて私が御届けさして頂いとりましたら、神様からですね、下の方の病気はね、下の方を見るなち、人の下の方を。「人の足元を見るな」ということなんです。そしたら、久美子さんが横におってから、ほうら、ああたが私を、私ばっかり、ああたが言おらなちいうようなごたる顔で、こう見よりますから。やっぱそげなふうじゃろうと思うです。おとなしい人ですから、やっぱりその、なかなか人の足元ばっか見えるからですね。だから、細い人ですよ。人の足元見えるから。ね、ほんとに、そういうふうで自分も頂いておりましたんです。
 だから、人の足元だんじゃない。自分の足元をしっかり見ていきよるならば、人の足元は分からんと私は申します。そうすりゃ、その人もおかげを頂くというのであるから。私、そういう風にお取次ぎさしてもらうから、ひとつあんまり人の方を、人の下のほうを見ないようにしなさいと言うてから、まあ申しましたことでございます。
 
 私達がだんだん見るまいと思うても見える。ね。ほんとにあれがあああってくればいいのに、これがまちっとこうだんあってくれるといいけれども、というような風に人ばっかり見えていけない。自分が見えん。信心はやっぱり自分自身が見えてこなければでけん。
 二、三日前の朝の御祈念でした。神様の前に座らせて頂いてから、まあちょっとした(?   )です。ね。ほんとに考えてみれば考えてみるほど、ね。御理解を頂けば頂くほど自分がつまらないという事が分かってきた。もう自分でも足らんのがおかげが頂けん、ほんとのおかげ頂けんだろう。ひがんできた。ね。世の中には生れつき素直な人がおる。生れつき、じつに実意丁寧な人がおる。ほんとに物事に忠実な人がおる、生れつき、信心は無かっても。ところが信心はしておっても実意のない、真心が欠けておる。言うこととする事が違うとる。ね、ほんとに自分のような者がです、私はおかげが頂けんだろう、ほんとのおかげを受けられだろうと、思う時にです、私は神様に対してから、神様も、それこそきうすうなってんばってんから、まあきすうなるところから考えられるのじゃないかと思うた。だいたい神様も悪かっと思うたんですよ。せっかくならば心柔らかつやら、素直な忠実なつばっかり作っときゃよかとに。私んごと、それこそそっちの胡瓜んごと曲がっとんごとやら、ちょいとたたらすぐしなーっとばっかりその作られてから。
 初めからおかげの受けやすいね、皆を神様がお創りになるのならばです、もちっと素直なふうに格好良う創ってよかれたらよかろうのに、というようなふうに私は考えたんです。皆さんはどうでしょう?勿論これで良いと思われるでしょうか。
 もう俺のごたっとはもうおかげ頂ききらん、と言うて信心に、いわばさじを投げるようにして信心をおろそかにしていく人があります。信心はおれがいしては、もうほんとにおかげを落としてしまわなければなりませんですから。
 ところが、教組の神様はですたいね、「屑の子ほどかわいい」と言うておられる。天地の親神様は「屑の子ほどかわいい」と。自分の子供の中に屑の子を持ってみよと。その子ほどがかわいいのが親心じゃと。してみるとあんまり見せたことはない。自分というものが、ほんとに不肖の子であり、ね、屑の子でありという自覚がほんとに出来たところから、神様が手を差し伸べ給うのである。そして、むしろ素直なごとある、単純なごとある、忠実なごとある、そして簡単におかげを受けている人よりも、もっともっと深い意味合いのおかげの受けられるということを、私は感じた。
 
 何時であったか、ある人がおかげを頂いた。金銭のお繰り合わせをおもむげなく頂いた。なるほど信心も出来るんですけれども、ちょっとその後が悪かった。どうも椛目の人達は、この浮いた浮いたの気分があるんです。もちつけてもちょいと持ったらぱーっと使うてしまう。ね。だから、神様がですね、おかげを下さるのにぱーっと使うてしもうたり、かえってそれでめぐりを作るようなことの為に、神様は、ほんとなおかげは下さらないと私は思うですね。
 もうこんな苦しい時に、もうここに金の十万でもいい、五万でもよか、お繰り合わせを頂くなら、もうそれが先はいっちょんむねはつけはしまっせんて言いよるけれども、そげんな金の五十万もぽーんと持たせよるとです、もうそれこそ融通はつかんでも、それこそ有難みなものなしにいつの間にか無くなってしまう。
★私その事をお願いさして頂きよったらですね、みかん畑をずーっと広々と頂いた。真っ黒いはるの中に、まだ真っ黒いような、青いみかんがなっておるんですよ、いっぱい。ところがその中の一枝だけがです、赤く熟れておる。もちろん葉も枯れ上がったようになっておる。みかんもちょうど、みかんのように赤く橙色に熟れておる。ね。だから私は、ははあ、これはほんとのおかげじゃないなと、私が思うたです。
 ね、これはもう、(?)枯れておるとだもん。だから、その、みかんがいかにも丁度熟れているように見えるのだけれども、実際は、熟れているのではない、それは、枯れかかっておるのだと言う事である。そういうようなおかげを頂いてただ、おかげを頂いただけでまたそれを、落としてしもうていくという人もまたあるのです。

 ね、だからそういうおかげではいけん。やはり、黒々としたみかんが黒々としたあの、(?)だんだん時節を待っておかげを頂いて、神様のおかげであれがダイダイ色にならせてもらい、甘味がつき酸い味がつくというようなおかげを頂いて初めて本当のおかげなのである。ね。
 それを時期を待たずに、兎に角もう腐れたっていいけんはよう熟れる事といったような、私共願を誰しも持っておる。これは私共の信心のいわば早計なのである。ね。これはいわば頂き違いなのである。ね。そういうような中にある、昨日私ある方に参って来てからお話させて頂いた。ね。私があんまりその、家庭のようなかとこから、その良いところへ嫁に行っているわけなのである。もう先方が待ってござる。ですから他の姉妹達のその嫁さん達はもう、れっきと色んな稽古なんか出来た人が嫁さんに来なさる。
 だから、どうしても自分が何にも出来んというので、ひがみもありましょうけれども、漬け込まれる。ね。どう皮肉をいわれた、どう難儀な思いを悲しい思いをしよるという事をいうから私は申しました。

 ね。その人の衣装を見てみると、とても普通の人が、まあ、買えきらんごたっとば着けとる。もう、装身具なんかでもこれはもう、何十万せんならんかといったようなものを身に付けておる。ね。でこれは主人から買うてもらった。これはお父さんから買うてもらったというてその喜んでおる。だからそういうようなです物を頂く時だけは有り難い。ね。甘いもの前に見せてもろうた時だけは美味しいというて頂いて、苦いものを前に出されると、これは苦しい事である悲しい事であるではいかんじゃないか。これこそ(台を叩く)いわば(?)のようなものである。苦くはあろうけれども、それを頂いてこそ初めて心が大きくもなれば豊かにもなれる。
 いわば健全な胃腸が出来る。何を食べてもあたらん障らんというようなおかげが受けられるじゃないか。丁度主人と二人で来とったから。本当に今日も(?)頂いた。もう家内がいつも僻みなんです。ね。ですから本当にそこんところをそういう風に頂いたら先生おかげを頂きますなというて、自分も言い、主人もその事を頂いてから、喜んで帰らせて頂いた。

 ね。それが、皮肉ではない。自分をいじめよるごたっとじゃない。それこそ、苦い(?)である、もっと豊になれもっと大きくなれもっとおかげをやろうという神様のご神意なんだと。ね。私は心のね、いわば、胃腸という心の豊に大きくなる、いわゆる和賀心というのはね、そういう風にして、だんだん豊に大きくなって行くのではないかとこう思うのです。ね。ですから、例えばその、(?)とげとげしいのが出て来ても、それを自由自在に自分の豊な心で頂きこなす事が出来るのであり、使いこなす事が出来るのであり、それを自分の一台の三方に盛り上げてしまうのであり、そして自分の中心が、自分の信心を頂いておる信心が、安心が中心になって、ね、これは曲がっておるのでなかりゃないけん、これはじわっとする菜っ葉でなければいけんようにです、ね、他の見事なものよりもかえって見事に盛り上げられているそういう稽古をして行くと言う事がです、いよいよ自分の心の中に和賀心を頂くのであり、「家庭に不和の無きが元」と、どういうような場合でもです、もうあの人ばっかりは例えば本当に皮肉を言い寄ってもです、漬け込んで馬鹿にしよってもです、もうあの人はばっかりは馬鹿にしたっちゃ馬鹿にしがりがなか。
 皮肉に言うたっちゃいっちょん有り難い有り難いばかりば言う、言うほうが疲れる。というようなおかげを頂いたならどんなだろうかと私は思う。

 ね。それが、家庭だけではない、自分の心だけではない、ね、例えばお広前全体ならお広前全体の上においてもです、ね、そういうあり方をそういう信心をです、自分が住んでおる限りの、縁のある限りのところに押し広めて行くと言うことが信心であり、それを押し広めて行くと言う事が、多きな信心であり、これがゆとりのある信心である。
 お互いが徳を貯めたい信心の徳を貯めたい貯金したいというけれども、ね、どうぞ今日も無事にどうぞ私の商売が繁盛いたしますようにというだけであっては成程、おかげを頂いて今日も有り難うございましたというけれども、それだけでは、自分が有り難いだけ。
 果たしてそういうような願いだけで神様が喜んで下さるだろうかと。そういう、信心であったのがだんだん、信心が成長して、家族中のことを祈るようになり、ね、商売仇のことを祈るようになり、隣近所の事を祈るようになり、ね、袖すりあうも多少の縁とその縁を生かしてそのことを祈っていくような、私信心に育っていき、氏子にならせて頂いていくと言う事を、神様がお慶び、ね、そういう信心を私は神様がお喜びくださる信心であるという風に思うのです。ね。

★そういう風に私、今日御神前に出らせて頂いたら、もう、その銀行のところ、銀行の窓口の所、銀行の行くのにはもう一万円札がこげん積んであるとじゃけん。ね。ほんにあれは貯金さえしておれば(?)いっちょ持っていけば、なんぼでも引き出す事が出来るのにとこう思うような、御神眼であった。ね。もうそれこそ銀行に限りなしにお金があるように、神様の懐の中には限りないおかげをお持ちになっておられるのであるから、ね、そういう、預金が貯金が出来なければならないけれども、預金というのは、ゆとりが出来なければ預金ができないでしょう。(?)いかんでしょう。
 ね。自分の心の中にゆとりが出来なければ、貯金にならんのである。ゆとりのある信心とは、ただ今私が申しますように、自分だけの事ではない、自分一家の事ではない、ただ今椛目でいうならば、ご造営ならご造営と言う事の中に、福嶋さんじゃないけれども、お父さんばっかりは椛目の事になったら、ぼうけた事なってきてから、うちの息子の事なんかお願いしよるのと、たまにはいいたい事もあるけれども、肝心要のその息子がおかげを頂いておるじゃないかと。ね。

 そういう信心になっていくことが私、ゆとりのある信心だと。これが、預金にならないはずはない。ですからいつでも必要な時には(?)持っていけば引き出して頂くことができるようなおかげを頂かせてもらうのである。
 ね。どうぞ皆さん、それは切実ですからね、自分が痛い痒いところは。だからそのお取次ぎも頂きましょう。お願いもいたしましょうけれども、お願いをさせて頂いたらもうお取次ぎの先生にお任せしてです、金光大神にお任せしてです、また(録音不良)
 自分のことになったら切実なんだけれども、隣のことは中々切実に祈る事は出来なかった。いやすりゃあ椛目のお広前は自分のお広前と同じだと思うておるのだけれども、お広前のことすらが切実に祈る事が出来なかった。
 そこで、自分の信心を気付かせてもらう。はあー、自分がおかげおかげと言いよるけれども、こげな事じゃあおかげが受けられるはずはないというところにです、謙虚なお詫びが出来ると私は思うのです。
 ね、(?)。本当に神様からああ言うて下さるのだけれども、実際は真もなからなければ切実さもない。自分のことになら切実になるのだけれども、自分以外の事になったらこんなにも目が粗い信心であるということに気がつかせて頂いてです、ね、そこんところを稽古繰り返し繰り返し稽古させてもらい、詫びては願い、詫びては願い、信心の稽古をさせて頂くうちにです何時とはなしに他人のことが自分の事として願えるような信心もだんだん出来てくるのではないかと、ね、(?)祈りすがりしておるその姿を、神様がです、ご覧になった時にです、一生懸命その稽古の、稽古のしぶりがよい。というて神様が(?)おかげを下さるようなおかげにもなってくると私は思うのです。

 毎日、(?)の方たちが三名ずつ、昨日は久富勇さんに大和さん、それから福岡の末永さんと三人である。毎日、(?)熱いのに朝の9時ごろから夕方の5時6時。昨日なんか7時ぐらいだったでしょう、帰ってみえられたのは。みんなは、若い方ばっかりなのですから、その、いよいよなんか穴掘りがありよる。ほんで穴掘りの御用までさせて頂いた。だから、あなたがたそういう御用をする事いらんけれども、とにかくあそこでああいうようなおかげを頂いておるのであるから、ああいうような大きな仕事があってあるのだから、どこに怪我過ちがあってはならんのだ。
 ね。どうぞスムーズに神様のご機感にかなうようなご造営が出来ます事を祈らせてもらう特別の祈り係御祈念係りなのだ。
 皆が思いよるけれども、今言うように寝ても覚めてもと言うごとあるけれども、いつの間にかそこに、こう、目が荒いのである。だから、(?)三人の方達がです、もうその事ばっかり祈っておる。そういう、御祈念係があってもよろしかろうと私は思う。ね。ですから、三人もいってただ監督だけんごたる、いわば、あんまりにもその、大の男が行ってからあれのごとあるけれども、ね、そういう意味合いで一生懸命御祈念をさせて頂くならばです、ね、有り難い。そしてご造営が済んだ後にです、ああいうような信心がどういうような結果をもたらすかと言う事を一つ体験してもらいたいというて昨日も又、今日も、今日は田中さん、それから(?)さん、から、中野さん。まあ皆さん(?)回っておられるのですよ。暑いのに必ずその毎日御祈念係が朝から、夕方までおかげを頂いておられます。

 ね。いよいよ自分の心の中に和賀心、いわゆる豊かな心を頂かせてもろうて、それこそ、踏んでも尽きぬほどのおかげを頂かせてもらう、おかげを頂かなければなりません。
 先日の月次祭、ご理解の中に申しました、あの、おー、「松の和泉」というお焼酎のお供えを頂いておった。ね。お互いがです、豊かにならなければ、おかげだけ頂きたい頂きたいというてもです、豊かな心の中に豊かな物は入ってこないです。ね。もう、(?)最近は少し焦りだしてきた皆さん。そんな感じがする。ね。あの、提出しておるあの、お供えの予定のあれがです、ね、全然出来ていないという人がある。もう、これは神様のお喜び頂けれる事じゃけん、出来るもんだと思うて、自身たっぷりのごたるであったけれども出来ない。
ね、(?)ても出来ない。いうなら焦ってきた。あせったっちゃおかげにならん。ね。まず、自分の心の中に、神様はね、そういうような事からそれを求めておられるのではなくてです、豊かな心にならせてもろうて、豊かなおかげを頂いて、その、豊かなおかげがご造営のいったんにもお使いが頂けれるようなおかげを願うておられるのである。ね。

 ですから今日は私はお神酒さんと松の和泉をここに出すように冷蔵庫に冷やしておいた。小さいチョコをつけるように久富先生に申しておりましたが、どうぞ、皆さんあやからなければいけません。ね、松の和泉にくませて頂けれるようなおかげ。それには、私共の心の中に、信心は家庭に不和の無きが元なり、自分の心が和らぎ喜ぶ心。ね、それは、我家だけの事ではない、お広前ならお広前そのものがです、ね、不和の無きが元であるというような、おかげを頂くためにただ、自分が辛抱しておく、自分が堪えておくというのではなくて、また八方美人的に話を合わせて行くというのではなくてです、心の底から(?)頂かせてもらえれるだけの信心。そこから、豊かな心が頂けれるわけである。その豊かな心にです、汲めども尽きぬおかげが頂けれるのじゃないかとこう思うのですよ。ね。どうぞ、えー、椛目の信心の御流儀と申しましょうかね、ね、これはもう本当に善導寺の親教会、子教会ということになるのでございましょうけれどもです、本当に垢ほどにそれほどに違うという事をです、感じる、実感させて頂きます。その事を私は先日ある方から親先生にその事を申しました。
 ね、それでもです一つ間違うと紅白合戦の事なるけれども、これが紅白鏡餅のように調和を保っていくならばです、これこそ、神様の前になしには出来んというような、二つの教会が出来るわけなのです。ね。
 ですから紅白合戦でまあ生き方が違うからというのではなくてです、ね、もうどういうような事でも赤と白であっても調和を保させて頂けれるようなおかげを頂くことのためにです、私共の心の中に、いよいよ豊かな心を頂かせてもらうことに、精進しなければいけないと思うのですね。
 
 今日、昨日でしたか、長男がおかげを頂きましてから、うー、ご本部の修行が一年、それから前後合わせてえー、一年半。親教会の修行。まあいうなら、都合二年半の修行を終えてお許しを頂いてから帰らせて頂いております。
 本当に皆さんに色々と又これからお世話に頂くことでございましょうけれども、まあどうぞよろしく信心のお引き立てを頂きたいと思うのでございますけれども、私の午後の時間をあの人に与えておりますから、午後の二時から四時までを奉仕させて頂いておる。
 先日私ここで休ませて頂いておりましたら、丁度北野の秋山さんがお参りしてみえられていた。熱いさかりであった。ほんでその、長男がお取次ぎさせて頂いておるのですね。秋山さん本当にここに座らせて頂いておりますとです、やっぱり足も痛い。もう足もだらだら、汗も流れますけれども、ね、三代金光様が14の時からお座りになったと思わせて頂くとです、本当に有り難うなりますというてもう、(?)そういう事を話しておりました。おばしゃま見よってください。本当にこの修行をし抜かせて頂くからというような意味の事を、おー、お取次ぎさせて頂きよったです。あの、お取次ぎということはですね、良いご理解を頂くとか、ああいって、教えたという事じゃないですね。そん時にお取次ぎを頂いた人がですね、もう本当におかげを頂いた、若先生ありがとうございますというて帰ったらもうおかげなのです。

 あくる日秋山さんが参ってこられ、丁度私奉仕しておるときに参ってきてから、先生昨日は一日若先生のあのおー、ご修行振りをです見せてもらい聞かせてもろうてから、もう、一日もう目さえつぶればその事が思い出されて、もう、今日は一日有り難い、昨日ですね、昨日有り難いおかげを頂きましたというて、お礼のお届けがあっておった。私も聞かせて頂いてから何か眠気がピシャットさめるようなきがさせて頂いた。 
 ね、というような風で一生懸命これから信心修行をさせて頂くのでございましょうが、ね、どうぞ皆さんの勿論お引き立てを頂かねばできません。よろしくお願い致しますと同時にです、いよいよ、長男の信心がです次の合楽教会にどういうような道を示す事になっていくか分かりませんけれども、ね、どうでも私の後がです、より子供の代になっておかげの頂けれるようなおかげを頂くと言う事は、信者の皆さん自身の信心もそういう意味合いにおいて飛躍していかなくてはなりません。ね、どうぞよろしくお願い致します。
 その今度帰って参ります時に、親先生にお願いしてからもう何十年前のお道のパンフレットのような冊子が出ておりました。それを親先生がもう厚う閉じておられておった。それを親先生から大変昔の信心のよいことを書いてございますから、これを頂けんでしょうかち言うて、なら持って行きなさいち。て頂いて来たちいうて頂いてきたですね。その、私こう空けさせて頂いた所に佐藤宿老のお歌が出ておりましたが、ちょっと私ちょっとそこに書いてあったですね、真ん中の引き出しに書いてあった。それにあの只今私申しましたようなです、たった一口のお歌の中にでておるんです。
 もう年をとっていくのも自分で忘れるくらいにです道のことを願いお国の繁盛のことを思えばですもう自分が年を取って行くことも、忘れるといったような事が書いてあります。「老いたいと思う心の暇もなし、国と道との栄え祈りて」という、だからこそああいう大徳を受けられたんです。ね、皆さんはどうでしょう。例えば国とか道とか大きなことではなくてです、ね、本当に椛目のご造営が寝ても覚めても、そのことを祈らせて頂けて、ね、例えば暑いも寒いも感じんくらいにまあ、老いていくという事は出来ないに致しましてもです、ね、もうその、例えば自分の苦しいといったような事なんかはね、ぜんぜん問題ではない程の祈りが捧げられるようなおかげを頂けれたらです、ね、いよいよ有り難いことになるのじゃないかという風に思うですね。
 だから今日のご理解は、こういうような意味合いのことを大体申しました訳ですね。それにはまず自分の心の中の和らぎ喜ぶ心。家庭に不和の無きが元、(?)そういうものではないと言うことを申しましたですね。どうぞその、信心をさせて頂くならばですそれがです、本当に自分のものになっていかなければだめです。聞いただけではいけません。それが自分のものになって行くところのおかげを頂かせてもろうて、いよいよ信心を進めて行かなければならんと思うのでございます。
                    おかげを頂きましてありがとうございます。